自力本願で追え

自分の考えをまとめたり、好きなものについて語ったり

不条理に飼いならされていないか

今回のブログは主に女性蔑視や差別の問題について、私が感じて言葉にしておきたい、忘れたくないと思ったことを記しています。ジェンダー論について、自分自身まだまだ勉強不足な点もあると思っています。もし記事を読んでこれは違うんじゃないかな、と思われることがあればぜひ教えてください。と共に、これは一個人の考えでもあるので不快な思いをされても誹謗中傷は受け付けません。

 

 

 

 

私は大学で法律について学んでいます。その中で2018年度下半期はとにかくジェンダーの話題に触れることが多かったです。特に印象に残っているのは、ある教授の言っていた「フランス人権宣言の『人』は原語では『男性』という意味で女性は含まれていなかった」という言葉と、講義で見た「Suffragette(邦題:未来を花束にして)」でした。

 

フランス人権宣言の『人』の定義に『女性』が含まれていなかったという話は恥ずかしながら教授の言葉を聞いて初めて気付きました。共和制ローマの『市民』に『女性』が含まれていないことは知っていたけれど(世界史の初歩中の初歩なので)、フランス人権宣言の『人』に『女性』が含まれていないことは知らなくて、知らなかった自分に愕然としました。女性は本当に長い間『社会』の中で『人』ではなかったんだな、とストンと腑に落ちてしまってなんだかやるせない気持ちになったのです。それと同時にフランス人権宣言をさも素晴らしいもののように教えるこの社会に怒りを感じました(もちろんフランス人権宣言が基本的人権を実現するために与えた影響は計り知れないものがありますが)。

 

「Suffragette」は19世紀初頭のイギリスで参政権を求めて戦う女性活動家たちを描いた映画です。

 

1912年、ロンドン。劣悪な環境の洗濯工場で働くモードは、同じ職場の夫サニーと幼い息子ジョージの3人で暮らしている。
ある日、洗濯物を届ける途中でモードが洋品店のショーウィンドウをのぞき込んでいると、いきなりガラスに石が投げ込まれる。女性参政権運動を展開するWSPU(女性社会政治同盟)の"行動"の現場にぶつかったのだ。それが彼女と"サフラジェット"との出会いだった。
同じ頃、女性参政権運動への取り締まりが強化され、アイルランドでテロ対策に辣腕をふるったスティード警部が赴任してくる。彼は歴史上初となるカメラによる市民監視システムを導入し、無関係だったモードもターゲットの1人として認識されてしまう。
やがてモードに大きな転機が訪れる。下院の公聴会で証言をすることになったのだ。工場での待遇や身の上を語る経験を通して、初めて彼女は"違う生き方を望んでいる自分"を発見する。けれども法律改正の願いは届かず、デモに参加した大勢の女性が警官に殴打され、逮捕された。そんな彼女たちを励ましたのが、WSPUのカリスマ的リーダーであるエメリン・パンクハーストの演説だった ―

   出典: 映画『未来を花束にして』公式サイト(https://longride.jp/mirai-hanataba/story.php

 

この映画はある程度の脚色はあるにせよ、根本の部分は史実に基づく話で、内容はかなりハードです。現代に生きている私からしたら男女普通選挙を主張することはおかしなことではないのに、周りには白い目で見られ、旦那には離婚させられ、子供は奪われ(当時のイギリスでは女性に親権は認められなかった)、警察に暴力を振るわれ取り締まられていました。ほんの1世紀前にはこんなことが起こっていたんだ⋯とただただショックでした。余談ですが出来れば色んな人にこの映画を見て欲しいと思っています。ここで描かれている出来事は知っておくべき歴史だと思うのです。

 

私はとてもとても長い歴史の中で女性は社会の中で人ではなかったのだということ、その不条理は今も空気のように存在していることを理解しました。だってほんの一世紀前の世界では男女普通選挙を主張するだけで警察に殴られたり蹴られたりしていたんです。そんなに簡単にこの不条理が消えてなくなるはずがない。

でも一番怖かったのは私自身が差別に鈍感になっているのではないかということです。幸運なことに私は生まれてから今まで、現実に接触した人から女性であるということで不条理な扱いを受けた覚えはあまりないです。もちろん女性であるということで嫌な思いをしたことはあります。でもそういう出来事は私にとって非日常というか、普段私の世界にはいないおかしな人に遭遇してしまったな、ぐらいで処理していました。だから性差別の存在は知っていたし知識もあったけれどリアルなものとして捉えられていなかったんだと思います。

「Suffragette」を見て、私が当たり前に受け入れていることが実はおかしいのではないか、後世の人々は私たちを見てなんて生きずらい世の中だったのだろうと思うのではないか、と感じました。

こういう当たり前にある不条理って差別されている当事者であっても気付きにくい場合もあります。仕方ないと諦めて受け入れてしまう人もいます。ましてや不条理を被っていなければ理解することも難しいと思うのです。だって映画の中の大多数の女性たちも選挙権がないことを当たり前のこととして受け入れていたし、警察官はそれが正義だと言わんばかりに女性活動家達に暴力を振るっていて、そのことを疑問にも思っていませんでした。

女性軽視や蔑視の問題、女性であるが故に感じるこの社会での生きづらさみたいなことを男性は本当の意味では理解できないのではないかと気付いてしまって私はとても悲しくなってしまったのです。最もこれは男性が男性であるが故に受ける不条理を女性が根本的には理解できないとも言えるし、LGBTや人種差別問題に通じるものもあると思います。

 

だからこそ、私たちはそういう不条理に敏感でなくてはいけないと思うのです。と同時に不条理を訴えている人々の声に耳を傾けていく必要があると思います。人は自分のロジックでしかものを考えられないけれど、他人のロジックを理解したり共感することは出来ます。今って特にジェンダーに関しては新たらしい概念が次々生まれていると私は感じていて。例えばLGBTという言葉を私が認識したのはほんの十年ぐらい前のことだ*1し、その意味をきちんと理解できたのはここ五年以内くらいのことです。知らないことは罪ではないけれど、知っていく努力はするべきだと思うし、そうやって考え方をアップデートしていかないといけないと思います。多数派であることも、伝統に則っていることも、イコール正しいことにはならないので。

 

なんだかこうやって書いてみると当たり前のことしか書いていないな、とも感じるので少し恥ずかしいですね。

 

いつかの日か、こういう問題が話題にも登らなくなって、人々の差異が個性として当たり前に受け入れられる社会になるといいなと思います。そのために私はこういう問題に敏感でありたいし、考えることを放棄しないようにしたいのです。

*1:私が小学生高学年の頃なのでもっと前から言葉自体は世間に浸透していたのかも